広島市内最老舗
全日本葬祭業協同組合連合会 加盟
全日本霊柩自動車協会 加盟
広島県葬祭業協同組合 加盟
宮田葬祭
マツダ労働組合 指定
JA広島市農業協同組合 指定
広島商工会議所 会員
高陽町商工会 会員
RCCテレビ(中国放送)にてCM放送中
社 歴
※ 江戸時代末頃
紀伊の国(和歌山県)の浅野藩武士“ 宮田萬次郎 ”氏が、安芸の国
(広島県)浅野藩を得て厳島(宮島)に渡島し、桶・郷土品作成職人として生計を保つ。
※ 明治4年4月
現在の南区京橋町に移住し宮島の郷土品作成販売を始め、屋号を《宮田商店》と称し創業。柩の作成及び葬儀時に葬列として必要とされていた人夫等の斡旋業を始める。
※ 明治25年7月
《宮田商店》の別事業として現在の中区橋本町に移転し、《宮田葬儀店》として葬儀事業全般を手掛ける。
※ 同時期
この頃、居住地である現在の南区比治山町でも葬儀事業全般及び人夫等の斡旋業を始める。
※ 大正2年3月
同族・親族により
現在の南区稲荷町に支店(宮田徳一)
南区橋本町本店(宮田秀一)
南区皆実町支店(宮田秀一/自動車業兼業)
南区比治山本家(宮田新次郎)
中区白島町(宮田萬次郎)
中区天満町(宮田萬次郎/下駄屋兼業)
中区堺町(宮田萬次郎/八百屋・油屋兼業)で各々営業。
※ 昭和20年8月
原子爆弾にて資料や人材・財産等を焼失。死亡・行方不明多数。
※ 昭和21年10月
難を逃れていた本家の“ 宮田秀一 ”が現在の中区橋本町にて再興する。
※ 昭和23年9月
本家の“ 宮田秀一 ”逝去。分家筋の“ 宮田徳一 ”が継承。
併せて、現在の南区稲荷町に支店出店。
※ 昭和25年3月
“ 宮田徳一 ”死去により長男“ 宮田正夫 ”が継承するにも、当時、ABCC(現在の公益財団法人 放射線影響研究所 広島研究所)に勤務しつつ、現在の南区稲荷町にて葬祭業及びカメラ販売・写真現像店をも営んでいた関係により、葬祭業関連は“ 宮田正夫 ”の妻“ 宮田良子 ”が引き継ぐ。
※ 昭和28年4月
現在の中区上幟町に在った《京橋建材店》に利権を譲渡。
※ 昭和33年2月
《京橋建材店》の“ 山本正治 ”が店主と成る。
※ 昭和34年2月
現在の中区橋本町に店舗集約する。
※ 昭和40年10月
現在の東区牛田新町に移転し、住居兼店舗を構え本店として営業する。
※ 昭和46年5月
現在の安佐北区口田南に営業所を出店。
※ 昭和53年12月
“ 山本正治 ”退任。 義弟の“ 多田律男 ”就任。
法人化に伴い、屋号の《宮田葬儀店》を《有限会社宮田葬祭》と社名変更し法人登録し、“ 多田律男 ”が社長就任。
本社を現在の東区牛田中1丁目へ移転する。
※ 昭和54年3月
軽型寝台霊柩自動車を導入し、軽車両等運送事業を開始する。
広島市内初のキリスト教式儀式専門分野を発足し《広島イースター式典部》と称し、活動を始める。
発足に併せて【広島市キリスト教会連盟】より業者推薦を受ける。
JA広島市農業協同組合より業者指定を受ける。
広島商工会議所登録・広島県葬祭業協同組合加盟・全国軽霊柩自動車協会連盟に加盟。
小規模家族葬 専用式場《中山葬儀場》を東区中山南に開設。
※ 平成 元年1月
《広島イースター式典部》を《広島イースター式典社》に名称を変更。
※ 平成 2年3月
中国運輸局の認可を受け、寝台霊柩自動車運送事業を開始する。
【社団法人 全日本霊柩自動車協会】・【社団法人 広島県トラック協会霊柩部会】加盟。
※ 平成 5年5月
経済産業省大臣認可の全日本葬祭業協同組合連合会加盟。
※ 平成 6年7月
“ 多田律男 ”急逝の為、妻の“ 多田幸子 ”社長就任。
マツダ労働組合より業者指定を受ける。
※ 平成 7年7月
“ 多田幸子 ”退任。 “ 松田淳司 ”社長就任。
※ 平成 9年11月
【カトリック広島司教区】・【社団法人 広島基督教信徒会】より業者推薦を受ける。
本社を東区牛田中2丁目へ移転する。
※ 平成14年9月
小中規模向け葬儀式場の《慈光ホール》を東区戸坂千足に開設。
※ 平成20年3月
慶弔生花・返礼品・相続に関する司法書士 等斡旋の特販事業部を開設。
※ 平成24年9月
本社を東区牛田中より安佐北区口田南の営業所へ統合移転する。
※ 平成25年10月
小規模家族葬 専用式場《中山葬儀場》を老朽化の為、閉鎖。
※ 平成29年9月
小規模家族葬 専用式場《牛田会館》を東区牛田新町に開設。
※ 令和 3年4月
創業150周年を迎え広島商工会議所より表彰を受ける。
現在に至る。